指導員という立場上(本当に指導員だったのかも分からないが)、僕とナカムラは仕事で関わることが多かった。何事も大勢に影響が無ければ問題無いというスタンスの僕とは真反対の性格で、ナカムラは細部にこだわる性格だった。

 ナカムラは僕の作成した資料を一度チェックする役割になる事が多かった。資料を提出すると、パスポートをチェックするクアラルンプール空港のクルーのように、横柄に僕の作成した資料を受け取り、罰金を懐に入れるために丹念に粗探しを行うカンボジアの警察官のように、極めて細かい点の指摘に終始した。意見の食い違いも多々あり、胸ぐらを掴まれることも少なくなかった。当初は現代社会において胸ぐらを掴まれるなんてことがあるのかと思いはしたものの、次第に僕はその環境に慣れていった。あるいは諦めたという方が正確かもしれなかった。


* * *


 ナカムラと過ごす日々は、幾分控えめに言っても無為だった。毎朝会社に出社して資料を作成し、資料の作成が終わったらナカムラに提出し、とにかく細部に関する罵倒を受け、資料を修正して家に帰った。非常に事務的で、機械的な毎日を過ごしていた。そんなある日、ナカムラが僕に(正確には僕を含めた同じチーム内の若手に)仕事とは関係無い様子で声をかけてきた。仕事以外で関わるのは真っ平だったが、声をかけられたので仕方がなく振り向いた。

「俺の昇進祝いをしろ」とナカムラは言った。

 僕らは一瞬の間、一体何を言われているのか分からなかった。頭の中で同じ言葉を反芻してみたが、理解できなかった。僕らは確かに日本にいて、日本語で内容を伝達されているにも拘らず、意味を理解する事ができなかった。自分の知っている文法とは異なる、新しい法則に基づく文法を使われているような錯覚に陥った。

 「俺の、《昇進祝い》だ」と彼はもう一度言った。

「昇進祝い、ですか」と僕は呟くように言った。ナカムラは少し前に昇進していて、僕を含めたチームの人は皆その事を知っていた。しかし、僕らの知っている昇進祝いとは《昇進した人を慕っている場合に行われるもの》であり、それとはあまりに異なる状況下で、昇進祝いという言葉を、祝われる(はずだった側の)人間がよく言えたものだと驚きを隠せなかった。

 「そうですね、折角なので飲みに行きましょうか」と別の若手が乗り気では無い表情で答えた。まるであまり仲の良く無い友人の結婚式に呼ばれた時のような返事だった。

 「場所と日程は任せる」とナカムラはどこか満足げな表情で答えた。

 数日後、ナカムラを含めて4人で飲み会は開催され、近所の溝でどぶさらいをしていた方がよほど有意義な時間を過ごす事になった。彼の話はお世辞にも楽しくはなく、僕らは「すごいですね」「そうですね」を繰り返す機械そのものだった。その翌日、うんざりしながらも飲み会代金の精算の相談のため、ナカムラのデスクを訪れた。

「俺に金を払えっていうのか?普段、あんなにも世話をしてやっているのにか?」とナカムラは言った。

 僕はある種の不快感とともに、頭の中が真っ白になった。あまりにも堂々と突拍子もない発言を受け、言葉が何一つ浮かんでこなかった。喉元まで出た言葉は喉の奥へと消えていき、空気だけが喉を通過する。まるで痰が絡んだ喉でB’zの楽曲を歌おうとしているような感覚だった。

 僕は不快感のあまり彼と会話をする事を諦め、残りの3人で費用を負担することを決め、その旨を上司(念のため注記しておくが、上司とはナカムラのことでは無い)へ報告することにした。


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denwa


 配属から半年ほど経ったある日、欧州に出張中の上司から一本の電話が入った。日本時間の正午を少し過ぎた頃合いであり、時差を考えると現地は夜中であった。

「松岡くん、そろそろ仕事には慣れてきたかい?こちらに着任してから半年ほど経ったかと思うが」と上司は言った。

「少しではありますが、慣れてきたとは思います。一部懸案もありますが」

「なら--」と上司は言った。「何か今後やってみたい仕事はあるかい?」

「それは難しい質問ですね」と僕は言った。「まだわからないことも多いし、特に何かをやりたいということも無い。でも好きな曲なら言えます」

「曲?」と上司は答えた。

「そう、曲。僕はビートルズの『Black Bird』が好きなんです。光を目指して飛んでいくけれども、その翼は傷ついている。希望を求める中に不自由の制約がある。自由な社会での不自由さがあるんです」

「つくづく思うが、君は変わっているね。君らしいと言えばそうなんだが」と上司は言った。

「失礼しました」と僕は言った。

「そうそう、伝え忘れていたことがあってこんな時間に電話をしたんだった」上司は思い出したように言った。「君には一時的ではあるものの、別のチームに移ってもらうことになった。なんでも案件の進行上どうしても人数の確保が必要らしく、このチームから人員を1名を派遣することになった。とはいえ一時的な移籍で、また数ヶ月後にはこのチームに戻ってもらうことになるがね」と上司は言った。

「わかりました。それにしても、なぜ僕なのでしょうか。僕はまだこの職場に来て半年しか経っていないというのに」と僕は訊ねた。

「君にとっても悪い話ではないと思うが。例の件もあったことだし」と上司はいたずらをする少年のように言った。「−−ただ、はっきりと理由については答えることはできないが、君の『傷』については幾つか答えることはできる」

「『傷』」

「君の『傷』はまだ深く無い。そう、分かるんだ。私にはね。まだ一定のポイントは通過していない、とでもいうべきだろうか。パン食い競争で言えば、まだパンまで辿り着いていない」

「パン食い競争、ですか」

「就職活動における最終面接でも良いし、スーパーマリオのセーブポイントでも良い」

「なるほど」と僕は言った。

「つまりこれは1つの機会だと思えばいい。何事も距離感というものは大事だろう?」

「わかりました。ありがたく機会を頂戴します」と僕は丁寧に答えた。

「納得してくれてよかった。うまく『差配』はするつもりだよ」と上司は含みを持たせるかのように言い、電話を切った。


* * *


 僕は別チームに移籍し、3ヶ月ほど別チームの人員として勤務をした。そして別チームでの任期が終わり、元のチームに戻った際、形容しがたい違和感が僕を包んだ。どこか靄がかかっているような、見えるはずのものが見えない、まるで星空を昼間に見ようとしているようだった。その日は違和感を覚えつつ、元のチームでの業務を行った。

 僕は自宅に帰り、ベッドで横になり、ふと「差配」と呟いた。すると、瞬く間に違和感の正体に気づくことができた。

 ナカムラが居ない。ナカムラが僕の前から姿を消していたのだった。具体的に何があったのかは僕は知らないが、ナカムラは居なくなっていた。正確には、確かにそこに「いる」はずなのにどこにも「いない」。存在とは認識の総体であり、認識なくしては存在はできない。ナカムラは、不完全な認識により、不完全な存在となっている。僕が別チームで過ごした数ヶ月という時間は、ナカムラ(あるいは僕を)を取り巻く認識を一変させるのにあまりにも十分な時間だった。

 僕はナカムラについてじっと考えてみた。不完全な認識。存在。不在。不連続な言葉の先に、『憐れみ』がある事に気がついた。僕は、ナカムラを憐れんでいるのだ。そしてナカムラへの『憐れみ』について考えを巡らせるうちに、あの日の『彼女』の微笑みの意味を理解できたような気がした。







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