2011年3月11日。

当時の私はまだ大学生でした。しかも、春休み。暇を持て余していたことは想像に難くない。

その日も普段と変わらず、テレビを呆けた顔で観ていたのだろう。

すると…

地震か…?

少しの揺れを感じたことを今でも記憶している。私がいたのは京都。震源地からは遠く離れた場所にある。それなのに揺れを感じた。それだけ大きな地震だったということである。

テレビから流れる情報も地震速報に変わった。

しばらくは震度○○、マグニチュード○○といった、いわゆる「いつもの」地震情報だった。

しかし、しばらくしていると津波情報になり、信じられない映像が目に飛び込んできた。

車を、家を、街全体を津波が飲み込んでいく。

確実に助からない。絶望。

遠く離れた京都に居ながらも寒気がしたし、絶望した。正直、怖かった。

これが率直な印象だ。あの映像は今も脳裏から消えることは無い。あれから8年以上が経過した今でも、はっきりと思い出せる。

あの日、私は何もできなかった。そんな無力を感じていた。

今、もう一度あの時のことをしっかりと自分の中に刻んでおきたい。

次にもし何かが起きたら、自分も行動に移したい、誰かを助けたい。

時が流れ、街は復興の真っただ中だが、震災の記憶が、爪痕が薄れてしまう前に、この目でそれを見ておきたいと強く思った。

私は今は震災遺構として一般に公開されている「旧荒浜小学校」へと向かった。



この場所へは仙台駅からアクセスも悪くない。

「荒井駅」まで行き、そこからバスで「旧荒浜小学校前」に行くだけだ。どちらも終点なので迷うことは無い。仙台に行く機会があればぜひ立ち寄ってほしい場所だ。

1 新井駅

ここが荒井駅。

外に出るとバス停がすぐ目の前にある。

2 植えられた気

バス停にはこの「浪分桜(なみわけざくら)」が植樹されたそうだ。

この地が津波による人材な被害を受けたのだという記憶を忘れない、後世に伝えるために。

バスに揺られ、しばらくすると旧荒浜小学校前に到着する。

まず小学校に入る前に、周辺を歩いてみた。

3 荒浜の道

ここに多くの家があったとは思えないぐらい、雑草が生い茂り、あたりには何もなかった。

4 震災の爪痕

「荒浜の歴史」という碑があったので見てみると、やはりここには大きな集落があった。しかし、今では見る影もない。

5 工事中の看板

震災遺構が残されている場所へとたどり着いた。

6 建物の基礎

そこには、家の基礎部分だけが残されていた。

津波で流されたのだ。

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津波によって大きく削り取られた大地。

その凄まじいエネルギーを伝えている。

こんなものに流されたら、人間なんてひとたまりもないであろう。








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戦場のようだった…。

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ここに人間の暮らしがあったなんて、この今の残された姿からだけでは想像できない。

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犠牲者を弔う慰霊碑だ。

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あの日、失われた命。

振り返ると、荒浜の街が失われていた。かつての賑わいはもう、無い。

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道を戻り、私はいよいよ旧荒浜小学校へと向かった。

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無残な姿のガードレールがいまだに残っていた。

小学校にたどり着いた。

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いまは震災遺構として、その役割を果たしているそうだ。

外観からも、あの日の津波の凄まじさを窺い知ることが出来る。
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津波の勢いで、あの高さの作までなぎ倒されているし、ベランダ部分は削り取られている。

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教室の天井は津波によって上に押し上げられてしまった。

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今でこそ瓦礫は撤去されたが、当時はこの教室に自動車が流されてくるほどだった。

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伝言板として使われた黒板。当時のまま、残されている。

家族の安全を願う気持ちが、その文字の一つ一つに込められていた。

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震災遺構はこうしてリアルを後世に伝えてくれている。あの日、全く別の場所にいた私にとっても、すごく身近なものに感じさせてくれた。このように震災遺構は場所を超えて、我々に大切なことを教えてくれる。それは当事者意識だ。時間と場所が離れれば離れるほど、我々はそれをどこか別の世界で起こった、自分たちには全く関係のないものとして捉えてしまう。でもこうして、リアルをそのまま伝えるものが残っていれば、少なくともそこを訪れた者にとっては間違いなく「リアル」となる。「リアル」という楔を、我々の中に打ち込むこと。それが震災遺構の役割だろう。これを直接見るか否かは経験として大きく変わってくるだろう。VRでは体験できないものだと思う。ここで人が本当に死んだのだから。

自分がいま生きている意味を嫌でも考えさせられる。そんな時間だった。






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