スピーカーから古い洋楽が聞こえる。ビートルズの「something」だ。僕はティファールでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れ、カップを口に運んだ。淹れたてのコーヒーはどこか泥臭く、お世辞にも美味しいとは言えなかった。コーヒーを机に置きなおし、その淋しげな音楽に身を任せつつ、少し昔のことを思い出していた。


「完璧な転勤などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

 僕が社会人になって初めて転勤で出て行った先輩が言った言葉だ。僕はまだこの言葉の意味を十分に理解できるほど、転勤を知っていない。ほんの僅かな転勤の断片を経験したことがあるだけだった。つまり、転勤については知っていることと同じだけ−–あるいはそれ以上に、と言うべきかもしれないが−−誤解をしているということだ。


 僕が初めて転勤というものを経験したのは2017年の4月のことだった。厳密には4月1日が休日であったため、内示という形で3月末に上司から転勤を伝えられたというのが正しい。僕にとっての転勤は、6月の台風のように当然やってきて、当然のように行く手にあるすべてをなぎ倒し、空へと巻き上げ、地面に叩きつけ、僕の周りの環境を、ある種、完璧な絶望とでも言うべき状況へと一変させた。


* * *


「松岡君。少し話があるので、こちらに来てくれないか」と支店長は言った。


 僕が支店長室に呼ばれるということは、僕に関する何か大きな出来事があったということであり、僕はひどく焦りを感じた。今まで支店長室に呼ばれて碌な目にあった試しがなかった。社会人1年目の研修の試験で不合格を繰り返していた僕にとって、支店長室に呼ばれるということは、説教が待ち受けていることと同義だった。また、そのような呼び出しをされることに関して、「新規・梅田」とボードに書いてタリーズに1日いたことや業務時間中に携帯の機種変更をしたことに加え、時期が3月末ということもあり、あまりにも思い当たる節が多すぎた。


 しかしすでに名指しで呼ばれてしまっていた。すでに大勢は決していた。飲み会で「よし!今から飲むぞ!」と思っていても「あ、ラストオーダーです」と言われればそこで終わりであるのと同じように、名前を呼ばれてしまった時点で手遅れなのだ。僕は動揺しながらも覚悟をきめ、足早に支店長室に入った。


 支店長室に入り、彼に促されるまま席に着いた。

「君に転勤の内示が来ている。東京だ。突然のことかもしれないが、理解してほしい」彼は重々しい口調で言った。


 あまりに想定外の内容であり、僕はひどく混乱した。まるで頭の中だけが突然洗濯機の中に放り込まれ、ぐるぐると攪拌されているかのような感覚に陥った。僕はどこか、転勤が自分とは関係のないもののように感じていた。そんな僕にとって、まさか自分に、本当に「転勤」が訪れるとは考えてもいなかった。そして東京に行くということは、僕にはあまりにも大きすぎる人生のイベントであるように感じた。


 すべての物事には必ず終わりがあるように、僕の中の混乱もその例外に漏れることはなかった。僅かながらの汗が額を伝い、顎のあたりに到達したあたりで僕は落ち着きを取り戻した。そして、その時にはもう僕は現実をすっかり受け入れられるようになっていた。確かに、僕は、転勤を言い渡されたのだ。


「君には出向という形で証券会社に行ってもらうことになる」彼は僕にそう告げた。

「証券会社、ですか」

 彼は肯いた。「そうだ、証券会社だ。今までの業務とは大きく異なることに加え、労働時間も非常に長くなるだろう。君にとっては大変だろうが、頑張ってほしい。おそらく来週には東京に行ってもらうことになる。転勤とはそういうものだ。引き継ぎなどはそれまでに済ませておくように」

 自分が今はまだ上司であることを改めて強調するような、とても重々しい口調だった。

「…分かりました。ありがとうございます」

 僕は絞り出すようにそう答え、支店長室を後にした。


 面談の後、僕は自動販売機で缶コーヒーを買い、その足で喫煙室に向かい、左の胸ポケットからマルボロを取り出して丁寧に火をつけた。煙草の煙は、まるでカラカラに乾いた砂漠を丁寧に潤していく雨のように、僕の体に染みわたった。人生で最も長く、最も短い5分間だった。


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* * *


 その日、夢を見た。ひどく現実感のある夢だった。


「ナカムラには気をつけて」と彼女は言った。

「ナカムラ?」

「そう、ナカムラ。世の中には大きなナカムラから小さなナカムラまで、たくさんのナカムラがいるわ。丁寧なナカムラもいれば、ひどく意地悪なナカムラもいるかもしれない」

「わからないな」と僕は言った。「君の言うナカムラって、一体何者なのだろうか。僕が今まで知っているナカムラは、そんなことはなかった」

「とにかく、今はわからないかもしれないわ。でも注意しておくことに損はないわ。好むと好まざるとに拘らずね」

「そんなものかな」

「そう、そんなものよ。私が言いたいのは精神的な問題だということよ。ある種の物事については、常に心構えが必要だということなの。いつもジャケットの内ポケットに名刺を忍ばせておくようにね」と彼女は自分の手をじっと見つめながら言った。あるいは、自分の手を通して見える「ナカムラ」を見ていたのかもしれなかった。

「それなら、左手の甲にナカムラって書いておくよ。中高生が忘れ物のメモするようにね」

「真顔で冗談を言うのね」

「真面目なことは茶化すことしかできないんだ」

「不便なのね。あなたって本当に変わってるわ」

「あるいはそうかもしれない」

 僕は頭の中でそれに続く言葉を探したが、全くと言ってもいいほど何も見つからなかった。そしてそこで目が覚めた。


* * *


 支店長の言った通り、それはまるでずいぶん前から予定されていたかのように、僕は次の週には東京へ行き、証券会社へと出向になった。そして、ナカムラをめぐる冒険が始まったのだ。



(参考:豚小屋社畜日記1)




黒澤あとがき


この物語は僕の心友であり、日本のトップバンカーとして日々労働に励んでおられる「豚さん」が綴る至高の物語である。彼の紡ぎ出す文章は、あの村上春樹を彷彿とさせる、文学界から見ても非常に価値のあるものである。今回の記事は、多忙を極める豚氏に何度も何度も寄稿の依頼を出す中でようやく入稿頂いたものである。彼の個人的境遇を知らぬ者にとっても、楽しめる内容になっているのではないだろうか。この作品の最後に書かれた「ナカムラをめぐる冒険」について、僕は豚氏から実情を聞いている。金融社畜の名に恥じぬ、実に興味深い物語であった。豚氏は僕などとは比較にならない地獄を見て、そしてそこを生きてくぐり抜けてきた。「冒険」という言葉にはどこか少しポジティブな響きがあるが、実際のナカムラは鬼畜そのものであったのだ。豚氏には引き続き続編の寄稿を粘り強くネゴシエーションしていこうと思う。不定期連載となるが、是非楽しみに待っていて欲しい。